つばさクラブについて
プロローグ
「えーっ、学童保育? ああ、言われてみれば、そんな言葉って、あったっけ」
1984年の春、私は保母さんにも、幼稚園の教諭にもなれるようにと大学での勉強を終え、希望に燃えて
札幌市白石区の、とある保育園に勤めていました。そして一年契約を終え、次の職場を探していたとき、
保育園の近所にある共同学童保育所『ぼうけんクラブ』の指導員に欠員ができたからと、そのお手伝いを
してみないかと声をかけられました。
ともかく、共同学童保育所『ぼうけんクラブ』には臨時の職員として、1985年7月から3ヶ月間の予定で働く
ことにしました。ところが、初めて『ぼうけんクラブ』に行ってみて、びっくりしました。
「子どもが遊べるような施設じゃないわ!」。使っている建物は、狭く、ボロボロの一軒家。通って来る
子どもの人数を尋ねたら、50人もいるというのです。
「そんなに大勢の子が、この狭いところで、いったい、どんな生活をしているんだろう」。
それが、共同学童保育所についての第一印象でした。
「学童保育所の約束が終わったら、また保母の仕事を探そう」
そんな軽い気持ちで学童保育所の指導員の仕事を始めました。ところが、小学生の子どもたちと毎日
いっしょに過ごしているうちにだんだんおもしろくなってしまい、これは保育園の仕事よりも学童保育の
指導員のほうが私には似合っているのかもしれない、と思うようになってきました。
私は、からだをつかうこと、走り回ったりすることが大好きでしたから、学童保育はとても自分に合った仕事
のように思えて、『ぼうけんクラブ』での生活は楽しい毎日でした。そこにはベテラン指導員がふたりもいる
という安心感もあり、しばらくは学童保育の仕事をつづけてみようかという気持ちになっていました。
ラーメン屋さんの店跡を借りての学童保育所づくり
子供たちとの楽しい放課後生活を送っていた『ぼうけんクラブ』に突然、このクラブを分割しようという話が
持ちあがりました。
『ぼうけんクラブ』は札幌市白石区にありますが、すぐ近く道路を隔てた南は豊平区で、そこには札幌市立
白樺台小学校があります。その学校に通っていた留守家庭の子供たちは、自分の校区外である学童保育所
『ぼうけんクラブに』入所していたのです。
『ぼうけんクラブ』と白樺台小学校との距離はほぼ1キロ。放課後になると子供たちは「ぼうけんクラブ」の
学童保育所に行き、そこが終わると、また、白樺台小学校の付近を通ってそれぞれの家に帰っていく。
なかには自分の家からかなり遠い距離のそんな毎日は低学年ばかりでなく、どの子にとってもかなりの
負担になっていたのは事実です。
そればかりでなく、子供たちの数もふくれあがって、夏休みや冬休みなどは、狭い施設の中に子供たちが
あふれていました。
これでは、子供たちにとっても、指導員にとっても負担が重過ぎ、保育内容の低下にもつながりません。
校区も違う事だし、「思いきって白樺台小学校の校区に新たな学童保育所を設置してはどうか」という声が、
親たちのあいだに持ちあがりました。そして、正式に決断したのは1986年の年明け早々でしたでしょうか。
みんなでベースになる家探しに奔走し、やっと見つかったのが現在の建物です。
それは、ラーメン屋さんの店舗でした。ちょうど店を閉じることになったばかりの時で、私も下見に行って
みると、まだ胡椒や唐辛子のビンがカウンター台の上に置かれたままになっていました。
新しいクラブでは、子供たちとどんなことをして遊ぼうか。こんなことをしよう、あんなこともしよう−。
発足するまでの短い期間でしたが、私の胸には経験不足という不安感を上回るほどに、新しいスタートへの
期待や希望が大きくふくらんでいました。
24人の子と“ないないづくし”のスタート
1986年4月6日、しらかば台小学校の新学期とともに、新設の共同学童保育所『しらかば台つばさクラブ』が
発足しました。児童数は『ぼうけんクラブ』から移って来た子が10人と新1年生が10人、募集やクチコミで
入所して来た子もいて、合計24人からのスタートでした。
まだ少人数でしたから、何をするにも、みんないっしょに行動することが多かったのです。近くの公園に遊びに
行くときも、部屋で何か作りものをするときも、みんないっしょ。子供たちは、まるで兄弟姉妹のように過ごして
いました。それにしても、あのころは遊び道具は何もありませんでした。ただひとつあったのは、『ぼうけん
クラブ』の指導員がお祝いに買ってくださった百人一首が一組と、コマが五つだけ。この二つは季節を
問わずに、なんどもなんども飽きずに遊びました。
タクロウを迎える父母たちの決断
そんな楽しさを、みんなでつくりあげていこうとする保育生活が1年半ほど続いた1987年の秋口だったと
思います。『つばさクラブ』の子供たちに、というより父母たちにとって、はじめての経験といえる“出会い”の
時を迎えたのです。
タクロウ君という知的障害のある子が学童保育所への入所を望んでいると、ある学童保育所の指導員から
電話が入りました。「その子は、小学2年生です。父子家庭の子なので、お父さんが仕事を終えて迎えに
行くまで預かってほしいという、たっての希望なのです。校区が同じなので、ぜひ『つばさクラブ』に入所させて
あげてくれませんか」という依頼でした。
「こういう事情で、私はどうしても働かなければ生活できません。なんとしても、この子を預かってもらわな
ければ、どうしようもないんです」と、タクロウ君のお父さんは懇願するのでした。「うーん」と、委員のみんな
はその願いを聞いているのが精いっぱい。お父さんがその場にいるあいだにタクロウ君を受け入れられる
かどうかを即答することはできませんでした。とりあえず、「あとで返事をさせてもらいます」ということで、
お父さんには帰ってもらいました。運営委員だけが残ってから、みんなで「どうする?」
「どうするの?」と、論議がはじまりました。しばらく、委員たちのそんなやりとりを聞き入っていた福井会長が、
「まず、先生はどうなのさ」と私に意見を求めてきました。私は、どう答えてよいか、ほんとうに困ってしまい
ました。
「なんとか、やっていけると思います」
いまにして思えば、なんとも頼りない声で答えたのではないかと思います。ほんとうは、もっと力強く答えるべきだったのでしょうが、そのときは“きっと大丈夫でないかな”くらいの気持ちしか持ちえませんでした。
しかし、そんな私の答えを待っていたかのように、
「うちで受け入れてあげなければ、どうしようもないだろうな」。福井会長のそのひと声は、その場に居合わせた委員みんなの思いを代弁するものでした。
緊迫していた空気が、ドッとやわらぎました。
「それなら、なんでその答えを、さっきお父さんに告げてやらんかったんだ」と、こんどは矛先を福井さんに向けて責め立てました。
みんなの気持ちには、あの場でタクロウ君のお父さんの心配を解消してあげ、少しでも早く喜んでもらうべきだったという後悔が強くあったのです。
あとで聞いたことでしたが、福井さんの気持ちは最初から決まっていたとのことです。しかし、みんなで話し合い、みんなが同じ気持ちになって、心からタクロウ君を受け入れる態勢をつくりたいという考えだったのです。
ゾウさんを呼び寄せてくれたタクロウ
『つばさクラブ』にとってもう一人の大切な指導員で、子供たちから「ゾウさん、ゾウさん」と親しまれ、頼りにされて
いる吉田泰三さんも、じつはタクロウが『つばさクラブ』に呼び寄せてくれたようなものでした。
そのころ、泰三さんは札幌の中央卸売市場で働きながらも福祉施設についての関心を持ちつづけていました。
市場の勤務が午前中に終わったあと、機会を見つけては、あちこちの施設や作業所、授産所などを訪問して
いたとのことです。 その泰三さんが、学童保育所のことを初めて知り、この『つばさクラブ』を訪ねて来たの
です。すると、健常な子どもたちといっしょになって、いきいきと遊んでいるタクロウを見たのです。
泰三さんがそれまで見聞きしてきた多くの施設は、障害者が健常者と離れたところで働いていたり、
生活しています。ところが、『つばさクラブ』はちがっていました。健常な子とハンディキャップのある子とが同じ
ステージで、それがまったくあたりまえのこととして、しぜんに生活しているのです。泰三さんは、そのことに
強い興味を感じたと言います。その結果、彼は『つばさクラブ』で働きたいと申し出てきたのです。
一方、『つばさクラブ』の父母たちにとっても、男の指導員ということに強い関心を寄せたようです。それは、
高学年児童に対する保育活動の必要性が全国的な課題となってきた時期でもありました。
高学年の子に対する当時の親たちの期待は、低学年の面倒を見てもらい、指導員の補助的な役割を
果たしてくれることが中心だったようで、高学年の子自身に対する保育の必要性やその対策などは、ほとんど
考えられていない状況でした。しかし、当時『つばさクラブ』には高学年の子が7人も在籍するようになり、
その子たちにとっても、おもしろくてダイナミックな活動を指導してくれる指導員の必要性を感じていた
ところでした。また、設立当初は低学年だった子どもたちも成長し、女性指導員一人では大きくなった
男の子の扱いに困りはしないか、という気づかいもあったのです。
“ゾウさん”は、すでに妻帯者でしたから、それに見合う給料が払えるか、などいろいろな不安もあった
ようですが、“ゾウさん”は「これからは収入がいままでの半分に減るけれど、おもしろそうなので一年間だけ
やらせてくれないか」と奥さんを説得して、『つばさクラブ』に指導員として来てくれることになったのです。
その“ゾウさん”は、奥さんとの契約を一年延ばしに更新して、かれこれ十年以上も『つばさクラブ』を
支えてくれていますが、その動機をつくったのが、ほかならぬタクロウだったのです。
洞爺湖一週サイクリング
「洞爺湖一周だなんて、うちの子に完走できるかしら」
午前7時。ゼッケン・ナンバーをひるがえし、力強くペダルを踏み込んで駆けだして行ったわが子を見送って、
ちょっぴり不安な表情を隠せない四年生の子のお母さん。1989年から毎年9月に開催している「洞爺湖一周
サイクリング」のスタート地点での風景です。
洞爺湖は支笏洞爺国立公園の中心的な湖で、その周囲は42キロ。湖畔に居並ぶ虻田町、壮瞥町、洞爺村の
三つの町村を突き抜けて走るコースには、早くも秋の気配が漂いはじめています。
洞爺湖一周サイクリングは、小学校四年生から六年生までの高学年全員が合同で参加する『つばさクラブ』
にとってのビッグイベントのひとつです。しかも、この行事に限って、高学年父母たち全員が実行委員になって
全面的に支援してくれますから、子どもたちは大張り切りです。
『つばさクラブ』に入所した子にとっては「四年生になったら、洞爺湖一周サイクリングに参加できるんだ」と
待ちつづけてきた、あこがれの行事なのです。一方、親たちにとっては、気力と体力をふりしぼって、たくましく
完走をめざすわが子の成長を直接目にする機会でもあるのです。
前日、湖畔に到着した子どもたちは早速、キャンプ場でテントを張り、お父さんたちがトラックで運んできて
くれたチャリンコ(自転車)の点検をします。
学年ごとに自分たちで作った食事のあと、ちょっぴり湖畔で遊んだりするけれども、やっぱり、明日のことを
思うと、はしゃぎきれない様子。みんな、夜は早めに寝てしまいました。
午前7時、いよいよスタ−トです。まず高学年女子、次いで高学年男子、そして成人OBの女子から男子へと、
5秒間隔で飛び出していきます。
「他人との競争ではなく、自分自身への挑戦なんだよ」
四年生なら、まず完走することが目標。五年生は、四年生のときのタイムよりも速く走ること。みんな、事前に
前年の自分のタイムを知らされているので、それぞれに自分の目標を持ってレースに参加しています。
コースの3ヶ所には“エイドステーション”(給水所)が設けられ、お母さんたちは駆け込んでくる『選手たち』に
ジュースや水の入ったコップを手渡そうと懸命。
バナナやクッキーをほおばり、ゆっくり休む子もいれば、なかにはタイムロスを惜しんでパスしていく子たちも。
スタート地点の横断幕は、いつのまにか「ゴール」に取り換えられています。子どもたちがスタートしてから
一時間半ほど過ぎたころ、ゴール間近のコースに声援と歓声がわき起こります。トップで駆け込んでくる
子の姿が見えたのです。すぐ後ろにも、最後の力をふりしぼってペダルを踏みつづけている子がいます。
「やったぁ!」と、握りこぶしをふりかざしてガッツポーズの子。ゴールインと同時に自転車もろとも倒れ込んで
しまう子も。しかし、みんな汗が噴きだす顔を紅潮させ、達成感に興奮しています。
感激しているのは、むしろお父さん、お母さんたちのほうです。こんなにたくましい力を発揮するまでに成長した
わが子に驚き、誇りに思っている様子を見ると、私たちまで感動させられてしまいます。
今年も、全員、完走です。
「あたし、ビリだったもん」と、ちょっぴりしょげている女の子に、一着でゴールインした女の子が声をかけて
います。
「でも、一生懸命、がんばったしょ」
それは慰めというよりも、つらさを共有した者同士の共感の言葉なのでしょう。そんな言葉を交わしあう
子どもたちの姿があちらこちらで見られ、その光景は美しくさえありました。
完走した子全員には「WING’S CUP(つばさ杯)42km完走賞」が授与されます。
この賞状を手にして、「42キロもの距離が走れたんだよね」と、子どもたちは時間がたつにつれて、そのことの
すごさをあらためて実感し、走る前の自分と、走りきったあとの自分とが明らかにちがっていることに気づくの
です。
札幌国際スキーマラソン
自分の気力、能力への挑戦では、札幌国際スキーマラソン大会への出場があります。毎年二月に、豊平区の
羊ヶ丘展望台をスタートして白旗山距離競技場をめぐるコース。国際的な招待選手が50キロ部門に大勢
エントリーする2500人規模の大会で、子どもたちは10キロ部門に出場します。
この大会のよろこびは、国際的な第一級大会のムードがあること。そして、この大会発行のプログラムに
自分の名前と年齢、所属団体の名前が掲載されること。毎年、思い思いに、いきいきと参加しているので
マスコミにも注目され、以前は大型ソリで参加した障害のあるカズヤが新聞で報道されたり、私も息子と
参加している様子が紙面に写真入りでとりあげられました。
札幌国際スキーマラソンはまさに真冬のページェントですが、やがて学年末へと近づいていく前ぶれであり、
子どもたちはきびしい冬の季節を越えることによって、またひとまわり大きく成長していくのを実感させられる
時でもあるのです。
父母が主役の親子キャンプ
『つばさクラブ』の夏のイベントは「親子キャンプです。
夏休みが近づくと、まず父母たちが「親子キャンプ実行委員会」をつくります。場所を決め、プログラムを作り、
係りの分担を決めて、指導員の私たちは「この時間帯の遊びと、キャンプファイヤーの内容はお願いします」
と頼まれます。ですから、その部分は子どもたちといっしょにあれこれ企画を立てて取り組んでいますが、
あとの部分は父母たちがみんなやってくれるのです。つまり、ほかの野外活動とちがって、この親子キャンプは
親が主体となってつくる行事なのです。指導員は、それをサポートする役割です。
親子キャンプは、親と子の交流という家族リクリエーションであると同時に、親同士の交流の機会でも
あるのです。ですから、子どもたちを寝かせたあと、親たちは夜を徹して飲み明かし、『つばさクラブ』の
ことをいろいろと語り合います。いちばんの関心は、クラブの中での子どもたちの様子。話を聞き込んで
いくうちに、先輩の親たちがこのクラブにどんなかかわり方をしているかを知るようになります。
『つばさクラブ』は、いつの場合も「働くざるもの、食うべからず」ですから、一年生も一生懸命お手伝いを
します。四年生では、焼き鳥450本も焼いた子がいました。いくら夕方といっても、真夏に火のそばでの
焼き鳥づくりは暑くてたいへんです。ほかの子は、飽きたり我慢できなくなって逃げだしてしまうのに、
その子は汗だくで頑張り通しました。焼き終わったときはさすがに参ったらしく、大の字になって倒れ
込んでしまいました。
大勢の親子が、それぞれに協力しあって作った食事をアウトドアで味わう楽しみは格別です。ハッピーな
たそがれの時間が、和やかに流れていきます。
そのあとは、ファイアー・ストームを囲んで歌ったり踊ったり、ときには持ち込んだ和太鼓をたたいての
大はしゃぎです。
テレビゲームで遊びを疑似体験
放課後、子どもたちはどんな生活をしているのでしょうか。
学級の友達もみんな習いごとや学習塾に通っているので、自分の遊びたいときに誘いあえる友達を探すのが
たいへんです。電話で予定を聞いて、遊ぶ予約をしてから出かけて遊び、そこへちがう友達が「遊ぼう」と
来ても「今日は○○ちゃんと遊ぶから」と断ってしまうことも、母親たちからよく聞く話です。したがって、遊び
相手を探すのが面倒くさいので、一人か二人で遊べる世界のファミコンやテレビゲームに飛びついてしまうの
です。
その遊び方も受け身的で、実際には、遊ぶことの疑似体験をしているような感じです。たとえば、男の子は
いつの時代も格闘ものが大好きですね。戦前ならチャンバラごっこや戦争ごっこ、戦後のしばらくは相撲や
プロレスごっこが大好きで、よく集まって遊びあいました。そんな遊びをしているうちに、つい夢中になって
力が入り過ぎたりすると「おまえ、遊びだべや。なにを本気だしてるのよ」とたしなめられたりして、だんだん
手加減というものを覚えたり、協調ということを知ったりしていきました。
ファミコンやテレビゲームも、なぜか格闘シーンがとても多いですね。プロレス技で悪者を投げ飛ばしたり、
電子銃のようなもので、いかに多くの相手を撃ち倒すかを競って遊びます。テレビゲームでは、そのへんは
徹底的にやっつけてしまいます。しかも、相手が傷つこうが死んでしまおうが、また自分がどんなに強烈に
ぶたれようが、いっこうに痛みを感じることはありません。そこには生身の知覚やコミュニケーションが
まったくないのです。
あるお母さんが話していました。
ときどき、その子のもとに何人かの友達が連れだって遊びに来ると、すぐにファミコンをはじめるのだそう
ですが、見ていると一人がファミコンをやっていると、順番を待っているあいだは、一人はマンガを読んで
いて、また、一人はプラモデルを出してきて遊んでいる、というのです。人間関係のより深い連帯や協調は
まるでないように見えます。
そうだとすれば、そこに仮想空間の中だけで疑似体験をしている場合の問題点があるのだと思うのです。
いまの若い人、高校生なんかの友達づきあいのありようを見ていますと、ブランド商品を共有しあっている
とか、プリクラを何枚持っているといった程度の、つまりファッションやトレンドを共有しあっていることによって
帰属意識を持つといった、上っ面だけのつきあいにとどまっている、そんな感じなのです。
すると、楽しいあいだはいいのですが、何かで行き違いが生じたり、困難に出合ったときには、それまでの
友達関係が簡単に崩れてしまう、そんな脆さがあると思うのです。
私たちは、もっと強いつながりを持ちあうことのできる関係が彼らのあいだに育ってほしいと思っています。
ですから、「とにかくテレビゲームよりおもしろい、画面の中の疑似体験なんかではなく、直接的なほんもの
の体験のほうが絶対におもしろいんだよ」ということが信じられる雰囲気をつくっていくように心がけています。
また、遊んでいるところへだれかが「入れて」と来たら「いいよ」といつでも受け入れ、楽しい遊びを共有しなが
ら、人の心に共感しあえるような仲間関係をつくっていきたいと思っています。
集団遊びができる『つばさクラブ』
『つばさクラブ』には、子どもたちの集団があります。集団があると、コミュニケーションの必要な遊びが
できます。『つばさクラブ』の子どもたちはコマやケン玉が大好きで、よく大勢が集まって遊んでいます。
コマもケン玉も一人で遊ぼうと思ったら、じゅうぶん一人で楽しめます。でも、集団で遊ぶことで、よりおもしろく、
発展していき、たがいに高めあったり認めあったりする心が生まれてきて、すごく豊かな世界になるのです。
自閉症で、言葉のないケイちゃんがコマを回せるようになったときも、みんなで「おっ、回った、回った」
「すごい、すごい」といって褒めてやったりします。まだ回せないでいる子には「こうすれば、もっと上手に回
せるよ」と教えあったりもしています。
コマもケン玉も、それぞれに「コマはともだち」、「ケンだマン」と子どもたちが名づけた技がたくさん載っている
カードを作っています。最初は、簡単な回し方ができるようになるところから始まって、だんだんむずかしい、
高度な技に進んでいくようになっています。
もちろん、その技にチャレンジするかしないかは、本人の自由です。でも、ひとつずつむずかしい技に挑戦して
いき、できたら「わぁ、できた」と大声を上げて喜ぶ。そんな積み重ねを体験し、達成感を味わうのも、一人より
は集団の輪の中でこそ倍加するよろこびなのです。
「つばさクラブ」の子どもたちには、何かを達成したときは分け隔てなく、必ずだれかがそのことを褒めてやる、
言葉をかけあうという、習慣が育っています。だから、あまり周囲から褒めてもらった経験のない子も、だん
だん心をひらいていくようになるのです。たかが、コマやケン玉だけれど、その技がどんなにむずかしいか、
やってもやってもできない時はどんなにくやしいか、そして苦労して成功させた時はどんなにうれしいか、
そのことを同じように感じてくれる仲間がいるのです。相手の気持ちを考え、それに寄り添い、喜びや
苦しみに共感できる心を育むには、集団が不可欠なのだと思います。
『つばさクラブ』は懐かしの母校、心のふるさと
いまの子どもたちの友達関係はクールだという人がいます。でも、『つばさクラブ』を卒所していった子たちは、
中学生、高校生、大学生とそれぞれに成長していっても、けっこう、『つばさクラブ』との心のつながりを保ち
つづけているようです。学校が休みになると、ときどき珍しい顔がひょっこり訪ねてきたりします。
『つばさクラブ』に訪ねて来たら、「全然、変わってないな」って、口ぐちに言います。ある男の子が
何年かぶりでやって来て、あちこち眺め回しながら言うのです。
「変わんないな」と。そして、流し場の汚れた鏡を見つけて、
「これも変わってないじゃないか」
もっと、べつな感想はないのかと言いたいところですが、
「やあ、変わらないって、いいね」と言われると、グッときて、言葉に詰まってしまいます。
べつの女の子も、同じようなことを言っていました。そして、
「わたし、ここに居たんだよね」と。
子どもたちには、自分たちが楽しく過ごした『つばさクラブ』が、ただそのまま存在していることが、
うれしいのです。
課題は「放課後」の生活をどう確保してやれるか
いまの学校の状況、とくに中学校の様子などを聞いてみると、とんでもないことだな、と思わずには
いられません。では、どうすればいいのでしょう。多くの声は学校の教師や家庭の親たちの取り組みの
重要性を強調していますが、子どもは学校や家庭の中だけで育つものでしょうか。もっと思いっきり遊ぶ
ことができる環境、つまり地域の問題を考えていかなければ子どもの健全な成長は守れないのではないか
という不安を、親たちは持ちはじめているのです。
かつて学童保育所の創設は、共働きなどで留守家庭になる小学低学年の子の放課後を過ごす場を
提供しようと始まったものですが、いまではそれだけにとどまらず、子どもたちの豊かな放課後の生活を
どう確保するかの問題であり、それも小学校低学年児童だけが対象ではなく、高学年や中学生の
放課後にどんな手を差し延べていくかという地域全体の問題なのだという認識で、『つばさクラブ』の
親たちは取り組んでいるのです。
エピローグ
この著書「ぼくらは放課後の育った」は、1998年に発行されたもので、その後『つばさクラブ』にもいろいろな
動きがありました。
まず活動拠点となる所在地ですが、本文中にあるラーメン屋さんの店跡は交差点の角地にあり、何度か車が
飛び込んできたことなどもあり、ある方のご厚意により、豊平区月寒東の大きな庭の一軒家に仮住まいを
させて頂いています。 その後今の場所へ移転しました。
また、『つばさクラブ』の“卒所生”で、今は『つばさクラブ』の“指導員”として活躍している子もいますし、
タクロウのように転校などで卒所はしなかったけれども『つばさクラブ』を巣立っていった子どもも、いろいろな
ところで活躍し、ときどき『つばさクラブ』に顔を出したり連絡をくれたりしています。
そして、『つばさクラブ』に本当にいろいろなことを教えてくれた吉田泰三(ゾウ)さんは、学童保育を卒所した、
障害児を含む子どもと地域とのかかわりを考える『つばさ応援団』に参加したり、また、より広い立場に立った
福祉活動を行うなど、いろいろな活動を行っています。
また、本文中に掲載した行事は現在も行われている行事のみで、今までにもいろいろな行事への取り組みが
行われました。詳しくは著書『ぼくらは放課後に育った』をご覧頂くか、電話・FAXなどで問い合わせてもらうのも
良いかと思います。
ただ、本当の『つばさクラブ』を見て、そして少しの時間でも『つばさクラブ』そしてその子どもたちと接して
もらうことが『つばさクラブ』を知るいちばんの方法だと思います。
子どもと人間を愛する人々が幸せに生活できる地域を創造するために。
つばさクラブホームページ製作委員会